松丸亮吾さんが東大合格を果たした裏には、亡き母・順子さんの深い愛情と教育方針、そして最期に遺した一言がありました。彼の人生を大きく変えたそのメッセージは、多くの人に感動と勇気を与えています。
実際、学年最下位レベルから東大合格を成し遂げた松丸さんは、「母の言葉がなければ絶対に無理だった」と語ります。手作り参考書や“3時間勉強すればゲームOK”という柔軟な教育法など、母の想いが随所に詰まっています。
松丸亮吾を東大合格へ導いた母の存在
「東大に行くところを見たかった」—— この一言が、松丸亮吾さんの人生を大きく変えることになりました。現在、謎解きクリエイターとして活躍する松丸亮吾さんは、メンタリストDaiGoさんを長男に持つ松丸家の末っ子。
でも彼が東大に合格できたのは、決して順風満帆な道のりではありませんでした。実は高校時代、彼は学年300人中298位という成績でした。そんな彼を変えたのは、亡くなった母・順子さんの遺した言葉だったのです。
今回は、松丸亮吾さんの母親が遺した言葉と、その死因、そして彼女の教育方針が松丸亮吾さんの人生にどのような影響を与えたのかについてお伝えします。
反抗期の松丸亮吾と母親との関係
松丸亮吾さんは高校時代、兄のDaiGoさんと比較されるのが嫌で、親に反抗し、口をきかない時期がありました。まさに典型的な反抗期だったんですね。
そんな時期に、母・順子さんが乳がんになり、さらに肺にも転移していたことが分かります。最後の時間を過ごすために自宅療養となりましたが、当時の松丸さんは「自宅にいるくらい良くなったんだ」と思っていたそうです。
反抗期だったため、自宅の病室にいた順子さんと顔を会わせることもほとんどなかったといいます。ある時、父・悟さんから「きょうが最後だから部屋に入りなさい」と言われ、危篤状態となっていた順子さんとようやく面会しました。
どう思いますか?
兄弟全員が集まった時に順子さんは一瞬だけ意識を取り戻したそうです。松丸さんは「反抗し続けてごめんなさい」と言葉にならないほど謝ったといいます。
「中学時代にいっぱい見てくれた勉強の感謝も言えてないし、産んでくれたことも、ありがとうも全然言えなかった」と振り返っています。きちんと感謝を伝えられなかったことが「ずっと後悔」だったそうです。
母親が遺した言葉と松丸亮吾の決意
母・順子さんが亡くなった後、松丸さんは遺品整理で順子さんの手記を見つけました。その最後のページに書かれていたのが「頑張れたら、亮吾が東大に行くところを見届けたかった」という言葉でした。
この言葉を目にした松丸さんは、一気に目が覚めたといいます。「東大に行こう」と決意し、そこから猛勉強を始めました。当時は学年300人中298位という成績でしたが、母の思いを胸に猛勉強して3カ月後には7位にまで上昇。
その後、見事東大に合格したのです。
母親の言葉がこれほど大きな力を持つなんて、驚きですよね。
母親の教育方針が松丸亮吾を育てた
松丸さんの母・順子さんは、子育てにおいて独自の教育方針を持っていました。特に印象的なのが「勉強を3時間やったらいくらでもゲームをしてもいいよ」という言葉です。
松丸さんは「この設定が絶妙だったんです」と振り返ります。勉強が嫌いだった松丸さんに対して、母親は「やりたいことを人質にしたほうがいい」と考えたのです。
「ゲームをしたい。だったら3時間勉強しなさい。そこから先はいくらでもゲームをやっていい」というルールを設けました。よくある「ゲームは1日1時間まで」という制限ではなく、勉強を先にすることで、確実に勉強の時間を確保する狙いがあったんですね。
この方法、子育て中のママさんたちも参考になるのではないでしょうか?
松丸亮吾の母親の死因と最期の時
松丸亮吾さんの母・順子さんは、乳がんを患い、さらに肺にも転移していたことが分かっています。高校2年生の冬に亡くなったとされています。
テレビ朝日系「徹子の部屋」での松丸さんの話によると、最期は自宅で療養していたようです。兄弟全員が集まった時に一瞬だけ意識を取り戻したという最期の場面は、とても感動的です。
松丸さんは母親に対して、きちんと感謝の気持ちを伝えられなかったことを後悔していましたが、母の願いだった「東大合格」という形で、一つの約束を果たすことができました。
母親の手作り参考書と教育への情熱
松丸さんの母・順子さんは、息子の教育に対して情熱を注いでいました。特に印象的なのが、手作りの参考書です。
「徹子の部屋」で紹介された母親の手作り勉強ノートは、松丸さんが実際にテストで間違えた問題を貼り付けるなどして作られていました。とても丁寧に作られており、番組に出演していた方も「めちゃめちゃ綺麗!」と驚いていたそうです。
この手作り参考書は、母親の愛情そのものだったのでしょう。松丸さんは、この参考書を通じて勉強することで、成績を大きく伸ばしていきました。
松丸亮吾が語る母親との思い出
松丸亮吾さんは、母親との思い出として「食」を挙げています。母親の手料理は、具材選びや調理方法など、仕込みにもこだわっていたようです。
「おふくろの味」として特に印象に残っているのは、母親の作るシチューだったそうです。「おいしかった」と振り返っています。
食事はいつも母の手料理で、ピザは小麦粉をのばして作り、餃子も皮から作るなど、手作りにこだわっていたようです。家族の食事は大皿料理で、一つの皿からみんながとって食べるスタイルだったといいます。
こうした日常の思い出が、松丸さんの心の支えになっているのかもしれませんね。
東大合格後の松丸亮吾と兄DaiGoの言葉
松丸亮吾さんが東大に合格した時、兄のDaiGoさんからは意外な言葉が返ってきました。「お前が勝ったのは学歴だけだからな」という言葉です。
最初は「すっごいむかつくなって思った」という松丸さんですが、その後「大学に行くだけじゃダメなんだ。お前は何がしたいんだ?」というメッセージを受け取ります。
これがきっかけとなり、松丸さんは「東大」という肩書きに甘んじるのではなく、自分にしかできないことを見つけようと考えるようになりました。そして、謎解きの道へと進むことになったのです。
「今思えばあれはメンタリズムだったんじゃないかな」と笑顔で振り返る松丸さん。兄の言葉も、彼の人生を大きく変えるきっかけとなったようです。
まとめ:母の想いが松丸亮吾の原動力に
松丸亮吾さんの東大合格は、亡き母・順子さんの願いでした。「亮吾が東大に行くところを見たかった」という言葉が、彼の人生を大きく変えるきっかけとなりました。
母親の教育方針や手作りの参考書、そして最後に遺した言葉は、松丸さんの心に深く刻まれています。人から「すごいね」と言われるたびに「ぼくじゃない、母親が残してくれたものがぼくをこんなに大きくしてくれた」と思うという松丸さん。
「1個、約束を守れたかな」と語る松丸さんの言葉からは、母親への変わらぬ感謝の気持ちが伝わってきます。
松丸亮吾さんの物語は、親子の絆の深さと、一人の母親の愛情が子どもの人生をどれほど豊かに、そして力強く支えることができるかを教えてくれます。あなたも大切な人に、感謝の気持ちを伝えてみませんか?