2025年5月24日、音楽業界に衝撃が走りました。B’zのサポートメンバーとして活躍し、数々のヒット曲の編曲を手がけてきた明石昌夫氏が68歳で亡くなったのです。
ビーイングアーティストを中心に多くの楽曲を手がけ、90年代の音楽シーンを支えてきた明石氏。彼の訃報はミュージックユニバースによって公表されました。
「B’zの3人目のメンバー」とも称された明石氏の死因や、知られざる素顔について、今回は詳しくお伝えしていきます。
明石昌夫氏のプロフィールと経歴
明石昌夫(あかし まさお)氏は1957年3月25日生まれ、兵庫県西宮市出身の音楽プロデューサー、アレンジャー、ベーシスト、マニピュレーターでした。
音楽好きの家庭に生まれ、わずか4歳からヴァイオリンを習い始めるという音楽の才能に恵まれた幼少期を過ごしています。中学時代には1960年代から1970年代のブリティッシュ・ロックに強く魅了され、音楽への情熱を育んでいきました。
学歴は兵庫県立鳴尾高等学校を経て、大阪大学基礎工学部電気工学科を卒業。エンジニアとしての素養も持ち合わせていたことが、後の音楽制作における緻密な仕事ぶりに活かされていたのでしょう。
音楽業界での本格的な活動は1988年に始まります。明石氏が制作したデモテープが、当時急成長していた音楽プロダクション「ビーイング」の目に留まり、契約が実現。初めての編曲作品はB’zの「だからその手を離して」でした。
これを皮切りに、ビーイングアーティストを中心に多くの楽曲の編曲を担当。1997年までB’zのサポートメンバーとして、ベースとマニピュレーターを担当し、バンドの音楽性を支えていました。
明石昌夫氏の死因は何だったのか
2025年5月24日に68歳で亡くなった明石昌夫氏ですが、現時点では具体的な死因は公表されていません。
訃報はミュージックユニバースによって公表されましたが、詳細な死因については触れられていないようです。亡くなった経緯や状況について、今後関係者から何らかの発表があるかもしれません。
音楽業界の関係者からは追悼の声が続々と寄せられています。特にダイアモンド☆ユカイさんはSNSで「この人生の中で貴方に出会えて良かった」と心境をつづり、明石氏との交流を惜しんでいます。
長年にわたり日本の音楽シーンを支えてきた明石氏の突然の訃報に、多くのファンや音楽関係者が悲しみに暮れています。
どうですか? 突然の訃報に驚かれた方も多いのではないでしょうか。
B’zとの関わりと「3人目のメンバー」と呼ばれた理由
明石昌夫氏とB’zの関わりは1988年に遡ります。B’zの初期の楽曲「だからその手を離して」の編曲を担当したのが始まりでした。
その後、1997年までB’zのサポートメンバーとして活動し、ベースとマニピュレーターを担当。松本孝弘さんと稲葉浩志さんという二人のカリスマの音楽性を支え、バンドのサウンドを形作る重要な役割を果たしていました。
B’zの楽曲制作において、松本さんと稲葉さんのアイデアを形にする「翻訳者」のような役割を果たしていたと言われています。彼らの音楽的ビジョンを理解し、それを実際の音として具現化する技術と感性を持ち合わせていたのです。
「3人目のB’z」と呼ばれたのは、表舞台に立つ二人のメンバーを陰から支え、バンドのサウンドに欠かせない存在だったからでしょう。明石氏の音楽的貢献なくして、B’zの初期の成功はなかったかもしれません。
実は、稲葉浩志さんのボーカルレコーディングについても明石氏は詳しく知っていました。初期はAKGのマイクを使用していましたが、7thBluesの頃からNEUMANNのマイクに変更したそうです。こうした細部へのこだわりが、B’zの高品質なサウンドを支えていたのかもしれませんね。
ZARDなど他アーティストへの貢献
明石昌夫氏の音楽的貢献はB’zだけにとどまりません。特に90年代を代表するアーティスト・ZARDの楽曲制作にも深く関わっていました。
ZARDのシングル「Good-bye My Loneliness」「不思議ね…」「もう探さない」「眠れない夜を抱いて」「IN MY ARMS TONIGHT」「君がいない」「揺れる想い」「もう少し あと少し…」「きっと忘れない」「この愛に泳ぎ疲れても」「Boy」「翼を広げて」など、数多くのヒット曲の編曲を手がけています。
また、MANISHの「True Heart」「Best Friend」、田村直美の「WARRIOR〜迷子の大人〜」など、他のビーイングアーティストの楽曲制作にも携わっていました。
明石氏は自身のバンド「AKASHI MASAO GROUP」(通称AMG)も結成し、「A.M.G.」「All Shock Up」「CHAINED」「0609140112〜CODA#1〜」などのアルバムをリリースしていました。
90年代の日本の音楽シーンを彩った多くのヒット曲の裏には、明石昌夫氏の音楽的センスと技術があったのです。彼の編曲の特徴は、アーティストの個性を活かしながらも、聴き手の心に響く普遍的な魅力を引き出す点にありました。
明石昌夫氏の知られざる素顔
音楽プロデューサーとしての顔は知られていても、プライベートな明石昌夫氏の素顔はあまり知られていません。ここでは、彼の知られざる一面をご紹介します。
実は明石氏、体格からは想像できないかもしれませんが、意外にも小食だったそうです。後輩たちと食事に行くと、周りよりも早くお腹がいっぱいになってしまうことがあったとか。また、コーヒーを飲むためにカフェに入ると、パフェなどのスイーツを好んで食べる一面もあったようです。
さらに、アニメのキャラクターがデザインされた子供向けの駄菓子を買っているところを目撃されたこともあるそうで、「俺のだけど何か文句ある?」と笑いながら答えたというエピソードも。そのギャップに周囲は爆笑したそうです。
音楽に対する姿勢は真摯そのものでした。「音楽業界に携わると、人から言われるのが嫌な人は長く留まれない」と語り、批評や意見を受け入れる柔軟さを持っていました。
夢やぶれて音楽をやめたっていうのは、メジャーデビューとか事務所の契約とかそういうふうなものがなくなったとか、音楽で食うことが主な収入源ではなくなったっていう意味じゃないですか。でも、そういう時代じゃないんで。
このように、音楽業界の変化にも柔軟に対応する視点を持ち、若手ミュージシャンにもアドバイスを送っていました。
後輩思いの一面と音楽への情熱
明石昌夫氏は後輩思いの一面も持ち合わせていました。若手や新人アーティストのプロデュースにも積極的に取り組み、その才能を開花させるサポートを惜しみませんでした。
最近では、平野洋二というシンガーソングライターのプロデュースも手がけていたようです。平野氏は目の病気で楽器を思うように弾けなくなったにもかかわらず、独自の作曲法を確立して音楽活動を続けていました。そんな彼の才能と情熱を見出したのが明石氏だったのです。
音楽制作においては細部へのこだわりも持っていました。例えば、アーティストに合ったマイク選びにも熱心で、「コンデンサーだからいいってもんじゃない」と語り、その人の声質に合ったマイクを見つけるために何種類ものマイクでテストを重ねていたそうです。
また、音楽の聴かれ方の変化にも敏感でした。現代ではYouTubeやサブスクリプションサービスで音楽を探す人が増え、イントロだけ聞いて次の曲に飛ばされることも多いと指摘。そのため「イントロの無い曲、歌始まりの曲がものすごく多くなってる」と時代の変化を冷静に分析していました。
明石昌夫氏の音楽業界への影響と遺産
明石昌夫氏が日本の音楽業界に残した影響は計り知れません。90年代のJ-POP黄金期を支えた立役者の一人として、その音楽的センスと技術は多くのヒット曲を生み出しました。
B’zやZARDをはじめとするビーイングアーティストの楽曲は、今なお多くの人々に愛され続けています。それらの楽曲の裏には明石氏の緻密な編曲があり、時代を超えて愛される音楽の基盤を作ったと言えるでしょう。
また、明石氏は後進の育成にも力を入れており、多くの音楽家に影響を与えてきました。彼から学んだ音楽制作の技術や姿勢は、今も多くのミュージシャンやプロデューサーに受け継がれています。
音楽業界の変化にも柔軟に対応し、時代に合わせた音楽制作の方法を模索し続けた明石氏。その先見性と適応力は、変化の激しい音楽業界で長く活躍し続けた秘訣だったのかもしれません。
皆さんは明石昌夫氏の手がけた楽曲を聴いたことがありますか? 知らず知らずのうちに、彼の音楽に触れていたかもしれませんね。
まとめ:音楽の魔術師、明石昌夫氏の遺したもの
2025年5月24日に68歳で亡くなった明石昌夫氏。B’zの「3人目のメンバー」として、また多くのビーイングアーティストの楽曲を手がけた音楽プロデューサー・アレンジャーとして、日本の音楽シーンに大きな足跡を残しました。
4歳からヴァイオリンを習い始め、中学時代にブリティッシュ・ロックに魅了され、大阪大学基礎工学部電気工学科を卒業するという経歴を持つ明石氏。その多彩な経験と才能が、後の音楽制作に活かされていたのでしょう。
B’zやZARDなど、90年代を代表するアーティストの楽曲制作に深く関わり、日本の音楽シーンを支えてきた明石氏の突然の訃報に、多くのファンや音楽関係者が悲しみに暮れています。
小食で子供向けの駄菓子を好むという意外な一面や、後輩思いの優しさ、音楽への真摯な姿勢など、明石氏の素顔も少しずつ明らかになってきています。
明石昌夫氏が遺した音楽は、これからも多くの人々の心に響き続けることでしょう。彼の才能と情熱によって彩られた90年代の音楽シーンは、日本の音楽史に輝かしい一ページを刻んでいます。
明石昌夫氏のご冥福を心よりお祈りいたします。